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城攻めの戦術|力攻め・兵糧攻め・水攻めを解説

城攻め 戦術 合戦 戦国時代 城の知識
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城は守るために築かれましたが、歴史上、数えきれないほどの城攻め(攻城戦)が行われてきました。攻城戦の戦術は、力任せの正面攻撃から、時間をかけて城を干上がらせる兵糧攻め、さらには水を利用した水攻めまで多種多様です。この記事では、日本の城攻めの主要な戦術を歴史的な事例とともに解説します。

城攻めの基本

城攻めは、攻城側にとって非常に困難な戦いでした。一般に、城を攻め落とすには守備側の三倍の兵力が必要と言われており、多くの犠牲を覚悟しなければなりませんでした。

攻城側の不利

城には堀、石垣、土塁、門、櫓などの防御施設が整備されており、守備側は有利な位置から攻撃を加えることができます。攻城側は、これらの障害を一つずつ突破しなければならず、その過程で多くの兵力を失うことになります。

攻城戦の判断

戦国時代の武将は、城を攻める際にさまざまな要素を考慮しました。城の規模と防御力、守備兵の数、援軍の可能性、自軍の兵糧と時間的余裕などを総合的に判断して、最適な攻城方法を選択しました。力攻めが早いが犠牲が大きい、兵糧攻めは犠牲が少ないが時間がかかる、というように、各戦術にはメリットとデメリットがありました。

力攻め(ちからぜめ)

力攻めは、正面から城に攻めかかる最も直接的な攻城法です。

力攻めの手順

力攻めの一般的な手順は、まず遠距離から弓矢や鉄砲で城壁の守備兵を制圧し、次に堀を渡って石垣や土塁に取り付き、城壁を乗り越えて門を開放するという流れです。堀を渡るためには、竹束(たけたば)を盾にしたり、堀に土嚢を投げ込んで埋めたりする方法が用いられました。

力攻めの事例:大坂夏の陣

1615年の大坂夏の陣は、徳川方が大坂城を力攻めで落とした戦いです。ただし、この時すでに冬の陣の和議で大坂城の堀は埋められており、本来の防御力は大幅に低下していました。堀が健在であった冬の陣では、徳川方は城を力攻めで落とすことができませんでした。このことは、堀の重要性を如実に示しています。

夜討ちと奇襲

力攻めの変形として、夜襲や奇襲があります。守備側の警戒が緩む夜間に攻撃を仕掛けたり、予想外の方向から攻め込んだりする方法です。ただし、夜間の攻撃は味方の統制が困難で、混乱によって同士討ちが起こるリスクもありました。

兵糧攻め(ひょうろうぜめ)

兵糧攻めは、城を包囲して食料の補給を断ち、飢餓によって降伏に追い込む戦術です。

兵糧攻めの利点

兵糧攻めの最大の利点は、攻城側の犠牲が少ないことです。城を包囲するだけで、力攻めのように堀を渡り石垣を登る必要がないため、兵士の損害を最小限に抑えることができます。また、守備側の戦意を徐々に消耗させる効果もありました。

兵糧攻めの課題

兵糧攻めの最大の課題は、時間がかかることです。城内の兵糧が尽きるまでに数か月から数年を要することもあり、その間、包囲軍は陣営を維持し続ける必要があります。包囲中に敵の援軍が到着すると、攻城側が挟撃される危険もありました。

兵糧攻めの事例:鳥取城

1581年の鳥取城の戦いは、豊臣秀吉による兵糧攻めの代表例です。秀吉は事前に鳥取周辺の米を高値で買い占めて城内の備蓄を減らした上で、城を完全に包囲しました。約4か月の包囲の末、城内は凄惨な飢餓状態に陥り、城主の吉川経家が降伏しました。この戦いは「鳥取の渇え殺し」として知られています。

三木城の兵糧攻め

1578年から1580年にかけて行われた三木城の戦いも、秀吉による兵糧攻めの事例です。約2年にわたる長期の包囲戦の末、城主の別所長治が自刃して開城しました。この戦いは「三木の干殺し」と呼ばれています。

水攻め(みずぜめ)

水攻めは、河川の水を利用して城を水没させる攻城法です。

水攻めの方法

水攻めの基本的な方法は、城の周囲に堤防を築き、河川の水を城に向けて流し込むというものです。城が低地にある場合に特に効果的で、城内を水没させて守備側の行動を制限し、食料や武器を使用不能にすることができました。

水攻めの事例:備中高松城

1582年の備中高松城の戦いは、秀吉が行った水攻めの最も有名な事例です。備中高松城は沼沢地に築かれた平城で、通常の攻撃では攻めにくい城でした。秀吉は約3キロメートルにわたる堤防を短期間で築き、足守川の水を城に流し込みました。城は湖の中に孤立し、城主の清水宗治が降伏しました。この戦いの最中に本能寺の変の報が届き、秀吉は有名な「中国大返し」を行っています。

忍城の水攻め

1590年の忍城の戦いでは、秀吉の命を受けた石田三成が水攻めを試みましたが、城兵の頑強な抵抗もあり、水攻めは成功しなかったとされます。忍城は「浮き城」の異名を持つ城で、水攻めに対する耐性があったと言われています。

調略と内応

武力によらない攻城法として、調略(ちょうりゃく)も重要な手段でした。

内応の工作

調略とは、城内の武将や兵士に密かに働きかけ、裏切りや降伏を促す工作です。内応者が門を開けてくれれば、力攻めよりもはるかに少ない犠牲で城を落とすことができます。戦国時代には、調略が攻城戦の成否を左右することも多くありました。

降伏勧告

城を取り囲んだ上で、守備側に降伏を勧告する方法もありました。戦力差が明らかな場合、守備側が無益な抵抗を避けて降伏することは珍しくありませんでした。降伏条件として城兵の命を保証するなど、交渉によって流血を避ける例も見られました。

守城側の対策

城攻めに対抗するために、守城側もさまざまな対策を講じました。

籠城の準備

籠城(ろうじょう)に備えて、城内には食料、水、武器、弾薬を備蓄しておく必要がありました。大規模な城では、井戸を複数掘り、米蔵に大量の米を貯えるなどの準備が行われました。城によっては、城内で食料を栽培できる畑を確保している場合もありました。

援軍の要請

籠城の際に最も頼りになるのが、味方の援軍でした。籠城側は、包囲が始まる前に援軍を要請する使者を送り出し、援軍の到着まで持ちこたえることを目指しました。援軍が到着すれば、攻城側は二正面作戦を強いられることになり、包囲を維持することが困難になります。

出撃と反撃

守城側が受け身に回るだけではなく、積極的に出撃して攻城側を攪乱する戦術もありました。夜襲や小規模な出撃で攻城側の陣営を攻撃し、士気を低下させる方法は各地の攻城戦で見られます。

城攻めと城の設計

城攻めの戦術の発展は、城の設計にも大きな影響を与えました。

防御技術の進化

力攻めに対しては、堀の拡幅、石垣の高層化、枡形虎口の発達など、さまざまな防御技術が開発されました。兵糧攻めに対しては、城内の貯蔵施設の拡充や井戸の増設が行われました。攻城法と防御技術は、相互に影響し合いながら発展していったのです。

鉄砲の影響

戦国時代後期に鉄砲が普及すると、城の設計は大きく変わりました。鉄砲の射程に対応するために堀が広くなり、石垣に狭間(銃眼)が設けられるようになりました。鉄砲は攻城側にとっても守城側にとっても重要な武器であり、攻城戦のあり方を根本から変えたと言われています。

まとめ

城攻めの戦術は、力攻め、兵糧攻め、水攻め、調略など多岐にわたり、攻城側は城の特性や状況に応じて最適な方法を選択しました。城の防御技術は攻城戦術の発展に対応して進化し、両者は表裏一体の関係にありました。城めぐりの際に攻城戦の歴史を思い浮かべると、堀や門、石垣が持つ防御の意味を実感することができます。

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