おやすみの話|娘に読み聞かせた絵本に隠された真実
娘の寝かしつけは、私の担当だった。妻は朝が早いため先に休み、私が5歳の美咲をベッドに入れて、絵本を読むか、お話をしてから電気を消す。毎晩の儀式だ。
美咲はお話が大好きだった。絵本も好きだが、私が即興で語るお話のほうを好んだ。
「パパのつくったお話して」
毎晩そうせがまれる。私は適当に登場人物を作り、適当に冒険をさせ、最後にはめでたしめでたしで終わらせる。出来がよかろうが悪かろうが、美咲は嬉しそうに聞いてくれた。
あの夜までは、本当に幸せな時間だった。
森の女の子の話
その夜、私はこんな話をした。
「むかしむかし、森の中に一人の女の子が住んでいました。名前はハナちゃん。ハナちゃんは森の動物たちと仲良しで、毎日楽しく遊んでいました」
美咲はお気に入りのぬいぐるみを抱きしめて、目をきらきらさせて聞いていた。
「ある日、ハナちゃんは森の奥で不思議な扉を見つけました。扉を開けると、そこには見たことのない美しい花畑が広がっていました。ハナちゃんは花畑で遊んでいるうちに、帰り道がわからなくなってしまいました」
「えー、大丈夫?」
「大丈夫。ハナちゃんは賢い子だから、星を見て方角を確かめて、無事におうちに帰りました。めでたしめでたし」
いつもどおりの即興話だ。5分もかからない。美咲は満足そうにうなずいて、目を閉じた。
「おやすみ、パパ」
「おやすみ、美咲」
電気を消して部屋を出ようとしたとき、美咲が言った。
「パパ、その話の続き知ってるよ」
「え? 今のお話に続きはないよ。もう終わりだよ」
「ううん。続きがあるの。あの子が教えてくれた」
私は立ち止まった。
「あの子って、誰?」
「ハナちゃんだよ。ハナちゃんがね、パパの話は途中で終わっちゃうから、本当の続きを教えてあげるって」
子供の想像力だろう。お話の登場人物と会話する、そういう空想遊びは珍しくない。
「そう。ハナちゃんが教えてくれたの。じゃあ、続きはなんだった?」
美咲は目を閉じたまま言った。
「ハナちゃんはおうちに帰れなかったの。花畑にずっといるの。ひとりぼっちで」
「パパの話では帰れたけどね」
「パパの話はうそ。ハナちゃんはまだ花畑にいるの。ずっと」
「美咲、もう寝なさい」
「うん。おやすみ」
少し気になったが、子供の空想だと思って気にしないことにした。
エスカレーション
翌日以降も、毎晩お話の時間は続いた。しかし、変化が起きた。
どんな話をしても、美咲が「続き」を語るようになった。
勇者が竜を倒す話をすれば、「本当は勇者が負けたんだって」と言う。お姫様が幸せになる話をすれば、「お姫様は塔から出られなかったんだって」と言う。
すべて、ハッピーエンドがバッドエンドに書き換えられる。
「誰がそう言ったの?」
「あの子」
「あの子って誰? ハナちゃん?」
「ハナちゃんじゃないよ。あの子はハナちゃんじゃなかった。違う子」
「名前は?」
「名前はないって言ってた」
「どこにいるの?」
「ここにいるよ。パパには見えないの」
美咲は暗い部屋のどこかを指さした。部屋の隅の、何もないところを。
私は少し怖くなった。しかし、子供のイマジナリーフレンドだろう。発達心理学では珍しくない現象だ。
絵
三日後、美咲が幼稚園で描いた絵を持って帰ってきた。家族の絵だ。パパ、ママ、美咲。三人が手をつないで笑っている。
しかし、絵の端にもう一人描かれていた。黒いクレヨンで塗りつぶされた人物。顔も体も真っ黒。家族の横に立っているが、手はつないでいない。
「美咲、この黒い子は誰?」
「あの子だよ」
「あの子、真っ黒なの?」
「だって顔が見えないんだもん。暗いから」
妻にも絵を見せた。妻は少し心配そうだったが、「子供の想像力ってすごいわね」と言っただけだった。
幼稚園での出来事
翌週、幼稚園の先生から電話があった。
「美咲ちゃんのことで少しお話ししたいことがあるんですが」
幼稚園に行くと、先生はこう切り出した。
「美咲ちゃんが最近、お友達にちょっと心配な話をしているんです」
「どんな話ですか」
「お昼寝の時間に、隣のお友達に怖い話をするんです。内容が5歳にしてはかなり具体的で…その、亡くなった子供の話をするんです」
「亡くなった子供?」
「はい。『あの子は死んじゃったの。でもまだここにいるの。パパのお話が好きだから聞きに来るの』と。他のお友達が怖がってしまいまして」
私は言葉を失った。
家に帰ってから、美咲に静かに聞いた。
「美咲。あの子は、もういないの?」
美咲は少し考えてから答えた。
「いないって何?」
「生きていないということ」
「生きてないけど、いるよ。ここにいるよ」
「あの子は誰なの。教えて」
美咲は天井を見上げた。
「あの子ね、前にこのおうちにいたんだって。パパとママが来る前に」
「この家に?」
「うん。あの子のパパもお話してくれたんだって。でも、あの子のパパはいなくなっちゃった。お話の途中で」
「いなくなった…」
「だからね、パパのお話を聞きたいの。パパのお話は最後まであるから。めでたしめでたし、って言ってくれるから」
調査
私はこのマンションの履歴を調べた。
この部屋には、以前別の家族が住んでいた。父親と娘の二人暮らし。母親は離婚して家を出ていた。
父親は仕事に行き、娘は幼稚園に通っていた。ごく普通の父子家庭。
しかし、ある日父親が事故で亡くなった。娘は一人で家に残された。近隣が異変に気づいて通報したのは、数日後のことだった。
通報を受けて駆けつけたとき、娘はリビングで絵本を抱きしめて座っていたという。泣いてはいなかった。ただ、ずっと同じ言葉を繰り返していた。
「パパ、続きは?」
父親が読みかけていた絵本を抱えて、父親の帰りを待ち続けていたのだ。
娘はその後、親族に引き取られた。どうなったかは不明だ。
問題は、この出来事がいつ起きたかだ。
記録を見ると、10年以上前のことだった。つまり、娘は美咲よりもずっと年上になっているはずだ。
しかし美咲は「あの子」を自分と同じくらいの年齢の子供として認識していた。
あの少女は、あの日のまま、この部屋に残り続けているのだ。5歳のまま。お話の続きを待ちながら。
最後の夜
その夜、私は美咲にお話をした。いつもどおりの即興の話。しかし今夜は、美咲だけでなく、もう一人の聞き手を意識していた。
話の最後を、いつもより丁寧に語った。
「そして女の子は、大好きなお父さんのところに帰りました。お父さんは女の子を抱き上げて言いました。『おかえり。ずっと待っていたよ』。女の子は笑って言いました。『ただいま、パパ』。二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
美咲が目を閉じた。
「今日はあの子、何も言わない?」と私は聞いた。
美咲は小さく首を振った。
「あの子、泣いてる」
「悲しいの?」
「ううん。嬉しいんだって。お話が最後まで聞けたから」
私は暗い部屋の隅を見た。何も見えない。何も聞こえない。
しかし、何かが変わった気がした。部屋の空気が少しだけ軽くなったような。
「あの子、もういる?」
美咲は目を閉じたまま、穏やかに言った。
「いなくなった。バイバイって言って、いなくなった」
それ以来、美咲が「あの子」の話をすることはなくなった。幼稚園でも怖い話をしなくなった。イマジナリーフレンドの時期が終わっただけかもしれない。
しかし、時々思う。
あの少女は、ただお話の結末が聞きたかっただけなのだ。途中で終わってしまった物語を、最後まで聞きたかった。「めでたしめでたし」を聞きたかった。
父親が読んでくれるはずだった絵本の、最後のページを。
今も私は毎晩、美咲にお話をしている。必ず最後まで語り、必ず「おしまい」で終わらせる。途中でやめることは、絶対にしない。
もし、もう一人聞いている子がいたとしても、その子にも最後まで聞かせてあげるために。