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海辺の集落|漁村に伝わる禁忌と深夜の波音の恐怖

長編ホラー 漁村 怖い話
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海には、山とは異なる種類の恐怖がある。山の恐怖は「迷う」ことだが、海の恐怖は「引きずり込まれる」ことだ。足元の砂が波にさらわれ、気づいたときには岸が遠い。海の恐怖は常に、こちらの意思に反して連れ去られることへの恐怖だ。

これは、フリーライターの岡田さんから聞いた話だ。岡田さんは地方の風習や伝承を取材するルポライターで、全国の過疎地域を回っていた。

取材の依頼

岡田さんがその集落を訪れたのは、編集者からの依頼がきっかけだった。日本海側のある県の海沿いに、独特の風習を持つ小さな漁村があるという。人口は50人を切り、住人のほとんどが高齢者。過疎化が進み、あと10年もすれば消滅するだろうと言われている集落だった。

その集落には「月の夜に海を見てはならない」という掟があるという。満月の夜になると、住人は全員が家に籠もり、海に面した窓と戸をすべて閉める。理由を尋ねても「昔からそうしている」としか答えないらしい。

岡田さんは興味を持った。こうした禁忌は、かつて起きた災害や事故の記憶が風習として残ったものであることが多い。津波や高潮の被害を受けた地域では、海に対する畏怖が風習に転化するケースがある。

集落への到着

集落は最寄り駅から車で1時間以上かかる僻地にあった。海沿いの狭い道を走り、切り立った崖の下に張りつくように家々が建っている。

岡田さんは集落の区長である山本さんの家に泊めてもらうことになっていた。70代の元漁師で、穏やかな人柄だった。

「遠いところをよく来なすった。何もないところだが、ゆっくりしてくだされ」

山本さんの家は海から50メートルほどの場所にあった。二階の窓からは海が一望できる。岡田さんが窓の外を眺めていると、山本さんが声をかけた。

「明後日が満月だ。それまでに取材は終わらせてくだされ」

「満月の夜は、取材できないんですか」

「できないんじゃない。してはならんのだ。特にあんたのような外の人間は」

山本さんの口調は穏やかだったが、有無を言わせない厳しさがあった。

集落の掟

翌日から岡田さんは集落の住人に話を聞いて回った。

80代の漁師、佐伯さんはこう語った。

「わしが子供の頃からある掟だ。月の夜に海を見るな。海の声を聞くな。名前を呼ばれても返事をするな。この三つだ」

「何が起こるんですか、見たり聞いたりすると」

「連れていかれる。海の底に」

「誰に?」

佐伯さんは海を見つめた。

「海のもんに。昔から、この辺りの海には何かがおる。普段は深いところにいて出てこんが、月の夜だけ浅いところまで上がってくる」

「それは何ですか。魚? 動物?」

「人の形をしとる。だが人ではない。海から上がってきて、波打ち際に立つ。そして歌う。聞いた者は海に入っていく。自分の足で」

70代の女性、田中さんも似たような話をした。

「私の祖母が言っていました。月の夜の歌声は、亡くなった人の声に聞こえるんだそうです。父親を亡くした子供には父親の声に聞こえ、夫を亡くした妻には夫の声に聞こえる。一番会いたい人の声で歌うから、聞いた者は海に行ってしまうのだと」

岡田さんは丹念にメモを取った。典型的な海の精霊伝承だ。セイレーンの神話にも通じるものがある。民俗学的にも興味深い。

しかし、一つ気になることがあった。この集落では、過去にこの掟を破って実際に被害に遭った人がいるのかということだ。

その質問に、住人たちは口を揃えて答えた。

「おる。何人もおる」

記録

山本さんの家に戻り、集落の記録を見せてもらった。古い帳面に、集落の出来事が代々記録されていた。

その中に、不審な溺死や行方不明の記録がいくつもあった。いずれも満月の夜、またはその前後に起きている。

明治時代。漁師の息子が満月の夜に浜に出て、そのまま行方不明。

大正時代。嫁いできたばかりの女性が、夜中に家を抜け出して海に向かっているところを発見され、取り押さえられた。彼女は「お母さんが呼んでいる」と泣きながら言ったという。彼女の母親は前年に亡くなっていた。

昭和初期。集落の子供3人が肝試しと称して満月の夜に浜に出た。2人は途中で怖くなって引き返したが、1人は浜に残った。翌朝、その子供は波打ち際で倒れているところを発見された。意識はあったが、数日間口がきけなかった。回復した後、こう言ったという。

「海の中に町があった。きれいな町だった。みんな笑っていた。帰りたくなかった」

その子供は後年、漁師になったが、満月の夜には絶対に海に出なかったという。

満月の夜

取材は順調に進んだ。しかし岡田さんは、ジャーナリストとしての好奇心を抑えられなかった。

満月の夜に何が起こるのか、この目で確かめたい。

岡田さんは山本さんに内緒で、満月の夜に浜を見に行く計画を立てた。家を抜け出し、浜から少し離れた高台から双眼鏡で観察する。海に近づかなければ安全だろう。

満月の夜が来た。集落は静まり返っていた。すべての家が戸を閉め、灯りを消している。まるで集落全体が息を潜めているようだった。

午後10時、山本さんが寝たのを確認して、岡田さんは窓から外に出た。月明かりが海面を銀色に照らしている。

高台に向かった。浜を見下ろせる位置に着き、双眼鏡を構えた。

浜には何もなかった。波が穏やかに打ち寄せている。月光に照らされた砂浜は白く光っていた。

30分ほど観察を続けた。何も起こらない。やはり伝承は伝承にすぎないのか。岡田さんは少し失望しながら双眼鏡を下ろそうとした。

そのとき、聞こえた。

歌声だった。

低く、遠く、波の音に混じって聞こえた。女の声だった。旋律は聞いたことのないものだったが、どこか懐かしさを感じさせた。子守唄のような、祈りのような。

双眼鏡で浜を見た。波打ち際に、人影があった。

白い服を着た女性が、波打ち際に立っていた。海に向かって立ち、歌っていた。集落の住人だろうか。掟を破って浜に出てきた人がいるのか。

しかし、その人影にはおかしな点があった。波が足元に打ち寄せているのに、波が人影を避けるように流れていた。まるで人影の周りだけ、海水が近づけないかのように。

歌声が変わった。女の声から男の声に変わった。さらに子供の声に変わった。一人の人影から、複数の声が聞こえていた。

岡田さんは恐怖を感じたが、同時に目を離せなかった。双眼鏡を握りしめて見つめ続けた。

人影が振り返った。高台にいる岡田さんの方を向いた。

月明かりの中、その顔が見えた。

顔がなかった。のっぺりとした白い面に、目も鼻も口もない。それなのに歌声は続いている。顔のない口から、歌が聞こえている。

岡田さんは双眼鏡を落とした。目をそらし、高台を駆け下りて山本さんの家に戻った。

窓から部屋に入り、布団に潜り込んだ。耳を塞いだ。しかし歌声は聞こえていた。窓を閉め、雨戸を閉めても、歌声は壁を通り抜けるように聞こえた。

歌声は明け方近くまで続いた。そして、最後に岡田さんの名前を呼んだ。

「岡田さん。おいで」

聞き覚えのある声だった。数年前に亡くなった岡田さんの母親の声だった。

岡田さんは布団の中で泣いた。行きたかった。母に会いたかった。しかし、行ってはならないということだけは、理解していた。

翌朝

夜が明けた。岡田さんはほとんど眠れなかった。

朝食の席で、山本さんが岡田さんの顔を見て言った。

「見に行ったな」

否定できなかった。

「声も聞いたな」

「…はい」

山本さんは溜息をついた。

「声を聞いてしまったら、もう一つ掟を守らなければならない。この集落から出るまで、海を見てはならん。海の方角を向いてはならん。背を向けて歩け。振り返るな」

「そうしないと、どうなるんですか」

「海が呼ぶ。一度声を聞いた者は、海に覚えられる。覚えられた者は、次の満月にまた呼ばれる。何度でも。どこにいても」

岡田さんはその日のうちに集落を離れた。山本さんの言うとおり、海に背を向けて歩いた。車に乗ってからも、バックミラーに海が映らないように角度を調整した。

後日

岡田さんは東京に戻った。しかし、山本さんの言葉は正しかった。

次の満月の夜、岡田さんは夢を見た。あの浜に立っている夢だった。波打ち際に白い人影が立ち、歌を歌っている。母の声で。

目が覚めると、ベランダの窓が開いていた。岡田さんは東京のマンションの10階に住んでいる。ベランダの柵に手をかけた状態で目が覚めた。夢遊病のように、無意識にベランダに出ていたのだ。

マンションは海から40キロ以上離れている。しかし、ベランダに立つと、かすかに潮の匂いがした。そして、風に混じって歌声が聞こえた気がした。

岡田さんはそれ以来、満月の夜にはベランダの窓を内側から釘で打ちつけるようにしている。大袈裟だと思われるかもしれないが、命に関わることだ。

この話を聞いたのは、とある居酒屋でのことだった。岡田さんはビールを飲みながら淡々と語っていたが、最後にこう付け加えた。

「困っているのは、声に慣れてきたことだ。最初は恐怖しかなかったが、最近は母の声を聞くのが楽しみになりつつある。次の満月が待ち遠しいとさえ思ってしまう」

岡田さんは苦笑いした。

「これが『連れていかれる』ということなんだろうな。恐怖が消えて、代わりに懐かしさが残る。いつか窓の釘を打たない夜が来るのかもしれない」

私は何と声をかければいいかわからなかった。

岡田さんはグラスを傾けながら、窓の外を見た。その夜は満月ではなかった。しかし、岡田さんの目は、遠い海を見つめているようだった。

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