無人のエレベーター|誰もいないはずの箱の怖い話
この話は、私自身が体験したものだ。信じるか信じないかは、読んだ方に委ねる。ただ、あの夜のことを思い出すたびに、今でも手が震える。
残業の夜
私は都内にある12階建てのオフィスビルで働いている。部署は9階。繁忙期には終電を逃すこともある。そういう夜は、会社が契約しているカプセルホテルに泊まることになっている。
あの夜も、時計が午前1時を回るまでデスクに向かっていた。フロアには私一人。空調は23時に自動で止まるため、静まり返ったオフィスには自分のキーボードを打つ音だけが響いていた。
仕事を終え、パソコンをシャットダウンし、デスクライトを消した。非常灯の薄暗い緑色の光だけが、だだっ広いフロアを照らしている。
エレベーターホールに向かった。このビルにはエレベーターが3基ある。深夜帯は省エネモードで1基だけが稼働する仕組みだ。ボタンを押すと、すぐにドアが開いた。
箱の中は空だった。明るい蛍光灯の下、ステンレスの壁が冷たく光っている。私は乗り込み、1階のボタンを押した。
ドアが閉まり始めた。その瞬間、閉まりかけのドアの隙間から、エレベーターホールに人影が見えた。
人が立っている。こちらに背を向けて。
ドアは完全に閉まった。私は反射的に「開」ボタンを押した。残業仲間がいたのかもしれない。一緒に降りようと思ったのだ。
ドアが開いた。エレベーターホールには誰もいなかった。
見間違いだろう。疲れているのだ。私はもう一度「閉」ボタンを押し、1階へ向かった。
4階の停止
エレベーターが下降を始めた。9、8、7、6、5と階数表示が変わっていく。しかし4階で、エレベーターが停止した。
誰かがボタンを押したのだ。深夜1時過ぎに。
ドアが開いた。4階のエレベーターホールは薄暗かった。非常灯の光だけ。誰も立っていない。
5秒ほどドアが開いたまま、何も起こらなかった。そして静かにドアが閉まった。
誤作動だろう。古いビルだから、センサーの不具合もあるだろう。私はそう結論づけた。
エレベーターが再び下降を始めた。4、3と表示が変わる。
そのとき、背後で音がした。
息遣いだ。
私の背中のすぐ後ろで、誰かが呼吸している音が聞こえた。吸って、吐いて。規則正しく。しかし、その音はどこか湿っていて、粘つくような響きがあった。
私は振り返れなかった。体が硬直していた。鏡のように磨かれたステンレスの壁に目をやった。自分の姿が映っている。
自分だけだ。背後には誰も映っていない。
しかし、息遣いは続いている。確実に、私のすぐ後ろから。
1階到着
永遠にも思える時間の後、エレベーターが1階に到着した。ドアが開いた瞬間、私は箱から飛び出した。
ロビーは警備員の常駐する受付カウンターがある。しかし深夜帯は無人だ。監視カメラだけが赤い点滅を繰り返している。
振り返ってエレベーターの中を見た。空だった。当然、誰もいない。
私は早足でビルの出口に向かった。自動ドアを抜け、夜の外気に触れた瞬間、体から力が抜けた。あれは気のせいだ。疲労が見せた幻聴だ。
そう思いながら、ふと後ろを振り返った。
ビルのガラス扉の向こう、ロビーの奥にあるエレベーターのドアが見えた。まだ開いたままだった。
そして、その中に人影があった。
エレベーターの奥の壁に向かって立っている人物。背中をこちらに向けている。服装が見えた。グレーのスーツ。ストライプのネクタイ。黒い革靴。
私の今日の服装と同じだった。
人影はゆっくりと振り返り始めた。私は見てはいけないと本能的に感じ、目を逸らして駆け出した。カプセルホテルまでの道を、全力で走った。
翌朝
翌朝、出社すると警備室の前を通った。夜勤の警備員が朝番に引き継ぎをしている最中だった。
「昨夜、4階のエレベーターホールのセンサーがまた誤作動したみたいですよ」
夜勤の警備員がそう言った。
「4階は多いんですよね。前にも何度か」
私は足を止めて尋ねた。
「4階で何かあったんですか」
警備員は少し声を低くして答えた。
「いえ、大したことじゃないんですが。このビルが建つ前、ここは雑居ビルだったんです。その4階にあった会社で…まあ、人が一人亡くなっていましてね。残業中に心臓発作で。発見が遅れて、翌朝まで誰も気づかなかったそうです」
私は何も言えなかった。
「それ以来、深夜に4階のセンサーが反応することがあるんです。カメラで確認しても、何も映っていないんですがね」
警備員は苦笑いしながら言った。
「まあ、古いセンサーですから。故障でしょう」
私はうなずいて、エレベーターに乗った。1基だけ動いている深夜と違い、朝は3基すべてが稼働している。すぐにドアが開き、何人かの同僚と一緒に乗り込んだ。
9階でドアが開き、フロアに向かう。自分のデスクに着いて、パソコンを起動した。
画面が立ち上がるのを待つ間、ふと思い出したことがあった。
昨夜、エレベーターの中で背後に感じた息遣い。あれは確かに人間の呼吸だった。しかし、ひとつおかしなことがある。
あの呼吸は、吸って、吐いてを繰り返していた。ごく普通の呼吸だ。しかし、よく思い返すと、その呼吸にはある特徴があった。
吸う音はするのに、吐く音がなかった。
いや、正確には逆だ。吐く音はするのに、吸う音がなかった。
つまり、あれは呼吸ではなかった。ただ延々と息を吐き続けていた。生きている人間にはできない呼吸の仕方だ。
そしてもうひとつ。ビルの出口から振り返ったとき、エレベーターの中に見えた人影。あれが私と同じ服装をしていたことは間違いない。
だが、冷静に考えると、あの距離からストライプのネクタイの柄まで判別できるはずがない。夜のロビーは薄暗く、エレベーターまでは20メートル以上離れていた。
なのに、なぜ私はあの人影の服装を正確に認識できたのか。
それは、見えたのではなく、知っていたからではないのか。
あの人影が何であったのか。なぜ私の姿をしていたのか。答えは出ない。ただひとつ確かなのは、あれ以来、私は深夜にエレベーターに一人で乗ることができなくなったということだ。
残業が遅くなった夜は、9階から非常階段を使って降りる。階段を降りながら4階を通過するとき、踊り場の防火扉の向こうから、微かに何かの音が聞こえるような気がする。
それが空調の残響なのか、それとも他の何かなのかは、確かめる気にならない。
確かめなくていいことは、世の中にいくらでもある。