終電の乗客|最終列車で出会った女の怖い話
終電という言葉には、独特の緊張感がある。それを逃せば帰れない。だから人は走る。階段を駆け下り、閉まりかけのドアに飛び込む。間に合った安堵感と、息を切らした疲労感。そのどちらもが、判断力を鈍らせる。
だから、乗り込んだ車両の中に何か異常があっても、すぐには気づけない。
これは、会社の先輩である松本さんから聞いた話だ。
滑り込み乗車
金曜日の夜、松本さんは取引先との飲み会で遅くなった。最寄り駅の終電は0時38分。腕時計を見ると0時35分。居酒屋から駅までは走って3分。ぎりぎりだ。
改札を通り、階段を駆け下りた。ホームに電車が止まっている。発車のベルが鳴っている。松本さんは最後尾の車両のドアに飛び込んだ。
ドアが閉まり、電車が動き始めた。肩で息をしながら、車両の中を見回した。
金曜日の終電にしては空いていた。車両には松本さんのほかに、一人の女性が座っているだけだった。
女性は車両の反対側の端、一番奥の席に座っていた。白いワンピースを着て、長い黒髪が顔を隠している。俯いたまま微動だにしない。寝ているのだろうか。
松本さんは入口近くの席に腰を下ろした。酔いが回っていて、すぐにうとうとし始めた。
異変
最初の駅に着いた。ドアが開き、数人が降りていく。誰も乗ってこない。終電だから当然だ。
電車が発車した。松本さんはぼんやりと窓の外を眺めた。住宅街の灯りが流れていく。
ふと、あの女性のことが気になった。視線を向けると、女性は同じ姿勢のままだ。俯いて、髪が顔を覆っている。
しかし、一つだけ変わっていることがあった。
さっきまで車両の一番奥に座っていたはずの女性が、二席分こちらに近づいていた。
松本さんは目を凝らした。酔っているから、最初に見た位置を間違えたのかもしれない。女性は座席に座ったまま動いた様子はない。同じ姿勢で、同じように俯いている。
次の駅に着いた。何人かが降りた。乗る人はいない。
発車して、松本さんはまた女性を見た。
また近づいていた。今度ははっきりとわかる。さっきより確実に三席分こちらに寄っている。
しかし、動いている瞬間を見ていない。目を離した隙に移動している。まるで、こちらが見ていないときだけ動くように。
松本さんの酔いが覚めた。意識がはっきりすると、もう一つの異変に気づいた。
女性の足が、床についていなかった。
座席に腰掛けているのに、足がだらりと下がるのではなく、くるぶしの辺りで途切れている。いや、途切れているのではない。足が床の数センチ上で浮いているのだ。まるで、実際にはもう少し高い位置に座面があるかのように。
あるいは、座っているのではなく、浮いているかのように。
通過
松本さんは立ち上がろうとした。隣の車両に移ろうと思った。しかし、終電は車両間の移動が制限されていることがある。連結部のドアが施錠されている場合があるのだ。
次の駅まで待とう。駅に着いたら降りて、別の車両に乗り直せばいい。
電車は速度を上げていた。窓の外の景色が加速していく。次の駅が近いはずだ。
しかし、電車は減速しなかった。駅のホームが窓の外を一瞬で通過していった。
通過した。終電が、駅を通過した。
あり得ない。各駅停車の終電が駅を通過するはずがない。松本さんは窓に顔を押しつけて、流れる景色を見つめた。次の駅が見えてきた。
また通過した。
電車は止まらずに走り続けている。車内アナウンスも流れない。モーターの唸りだけが響いている。
松本さんは女性を見た。
女性は、もう三席先まで近づいていた。二人の間は、あと五席分ほどしかない。
そして、変化があった。女性の肩が微かに動いていた。上下に。笑っているのだ。声は聞こえない。しかし、肩を揺らして、確かに笑っていた。
停車
電車が減速を始めた。窓の外に駅のホームが見えてきた。今度は止まる。松本さんは入口のドアの前に立った。早く開いてくれ。
電車が停車した。ドアが開いた。松本さんはホームに飛び出した。
深呼吸をした。冷たい夜の空気が肺を満たす。振り返って車両の中を見た。
女性はいなかった。座席には誰も座っていない。がらんとした車両だけが蛍光灯に照らされている。
発車ベルが鳴り、ドアが閉まり、終電は去っていった。
松本さんは駅名表示を確認した。そして血の気が引いた。
そこは、松本さんの降りるべき駅だった。つまり、二つの駅を通過したにもかかわらず、到着したのは本来降りるはずだった駅だったのだ。
時計を見た。0時52分。時刻表どおりの到着時間だった。通過した時間は、どこにも存在しない。
松本さんはホームのベンチに座り込んだ。しばらく動けなかった。
後日
翌週、松本さんは何気なくその路線の歴史を調べた。すると、数年前にその路線で人身事故があったことがわかった。深夜の終電で、ホームから線路に落ちた女性がはねられたという記事があった。事故があったのは、松本さんが乗車した駅と降車した駅の間にある、あの通過した二つの駅のうちの一つだった。
記事には女性の服装については記載がなかった。ただ、事故は金曜日の深夜に起きていた。
松本さんはそれ以来、終電には乗らないようにしている。飲み会は早めに切り上げるか、始めからタクシーで帰ることにした。
先日、松本さんが思い出したように言った。
「あのとき、女性がだんだん近づいてきていただろう。俺は目を離した隙に移動していると思っていた。でも、最近になって気づいたことがある」
「何ですか」
「あの女性は動いていなかったんだ。動いていたのは、俺のほうだった」
「どういう意味です?」
「座席に座っていたのに、いつの間にか自分の位置が変わっていたんだ。目を離すたびに、俺のほうが女性に近づいていた。引き寄せられるように」
松本さんはコーヒーカップを置いて、窓の外を見た。
「あのまま電車が止まらなかったら、最後には隣に座っていたと思う。そして、あの髪の下の顔を見ることになっていた」
「見なくてよかったですね」
「ああ。でもな」
松本さんは目を細めた。
「見ていないのに、なぜか顔を知っている気がするんだ。夢に出てくるんだよ。髪の隙間から見える目と、開いた口が。あの顔は、叫んでいる顔だった。ずっと叫び続けている顔だったんだ」
松本さんはそれきり、この話をしなくなった。ただ、終電には今も絶対に乗らないという。
私もこの話を聞いて以来、終電の車両に乗り込むとき、無意識に乗客の足元を確認するようになった。全員の足が、ちゃんと床についているかどうかを。