山小屋の夜|登山中に逃げ込んだ避難小屋の恐怖
山には山のルールがある。天候が悪化したら無理をしない。日没前に行動を終える。そして、山小屋では扉を叩く者に安易に応じてはならない、という言い伝えがある場所もある。
これは、登山歴20年の中村さんから直接聞いた話だ。中村さんは経験豊富なベテランで、冷静沈着な性格の持ち主だ。その中村さんが「あれだけは説明がつかない」と語った体験を、ここに記す。
天候の急変
10月下旬、中村さんは単独で北関東の山を縦走していた。二泊三日の行程で、二日目の午後に尾根伝いの縦走路を歩いていた。
天気予報は晴れだった。しかし午後2時を過ぎた頃から、急速にガスが出始めた。視界が50メートル以下に落ちた。気温も急激に下がり、風が強くなった。
中村さんは地図を確認した。縦走路の途中に、無人の避難小屋があるはずだ。このまま進めば30分ほどで着く。日没まであと2時間。十分間に合う。
しかし、ガスの中を歩くのは容易ではなかった。道標が見えにくく、何度か立ち止まって地図とコンパスで現在地を確認した。予定より時間がかかった。
避難小屋が見えたのは、午後4時過ぎだった。日没まで1時間。ぎりぎりだった。
小屋は木造の小さな建物で、中には板の間と毛布が数枚、そして小さなストーブがあった。水場はない。中村さんは持参した水と食料で夕食を済ませ、ストーブに火を入れて暖を取った。
外は完全にガスに包まれていた。風が唸り、時折雨混じりの飛沫が窓を叩いた。この天候では他の登山者が来ることはないだろう。今夜はこの小屋に一人だ。
中村さんは寝袋に入り、ヘッドランプを消した。ストーブの火がオレンジ色の光を揺らめかせている。風の音を子守唄にして、やがて眠りに落ちた。
深夜の訪問者
目が覚めたのは午前1時頃だった。ストーブの火は消えかけていた。小屋の中は冷え込んでいる。
中村さんが薪を足そうと寝袋から出かけたとき、外から声が聞こえた。
「すみません。開けてください」
男の声だった。小屋のドアの外から。
中村さんは耳を疑った。この天候の中、深夜に登山者がいるとは考えにくい。しかし、もし本当に遭難しかけている人がいるなら、助けなければならない。
「今開けます」
中村さんはドアに手をかけた。しかし、その瞬間、あることに気づいて手を止めた。
風の音がない。
さっきまで轟々と吹いていた風が、完全に止んでいた。雨の音もない。まるで小屋の外だけが真空になったかのような、不自然な静寂だった。
「すみません。寒いんです。開けてください」
同じ声。しかし、よく聞くと声に奥行きがない。目の前で話しているのに、距離感がおかしい。まるで、壁の中から声が出ているような。
「あなたは登山者ですか。どちらから来ましたか」
中村さんは問いかけた。
沈黙。
そして、また同じセリフが繰り返された。
「すみません。開けてください」
まったく同じ抑揚、同じテンポ。録音を再生しているような正確さだった。
中村さんの背筋が冷たくなった。経験上、こういうときは開けてはいけない。山の古い言い伝えを思い出していた。
山の言い伝え
中村さんが若い頃、山岳会の先輩から聞いた話がある。
「山小屋で夜中にドアを叩かれても、すぐに開けるな。まず名前を聞け。名前を言えないものは人間じゃない」
当時はただの迷信だと思っていた。しかし今、その教えが頭の中で繰り返されていた。
「お名前を教えてください」
中村さんはドアに向かって言った。
返事はなかった。
その代わりに、ドアが揺れた。外から押されている。強い力ではない。しかし、一定のリズムで、繰り返し押されている。ガタン、ガタン、ガタン。
中村さんはドアから離れ、小屋の隅に移動した。ヘッドランプをつけた。
ドアは簡素な掛け金で留まっているだけだ。強い力で押されたら開いてしまう。中村さんは荷物からロープを取り出し、ドアの取っ手と壁の柱にくくりつけた。
ドアが揺れ続けている。ガタン、ガタン。
そして声が変わった。
「中村さん。開けてください」
名前を呼ばれた。
中村さんは凍りついた。名前を聞いたのはこちらだ。なのに、相手が先に名前を知っている。
「中村さん。寒いんです。中に入れてください」
声のトーンが変わっていた。さっきまでの平板な声ではなく、親しみのある声。知り合いの声だ。
山岳会の先輩、木下さんの声だった。
木下さんは3年前に山で遭難して亡くなっている。
「中村さん。俺だよ。木下だよ。開けてくれ」
中村さんは答えなかった。木下さんはもういない。あの声は木下さんではない。
しかし、声は完璧だった。木下さん独特の少し鼻にかかったような話し方、東北訛りのイントネーション。生前の木下さんそのものだった。
「寒い。寒いんだよ、中村。頼むから開けてくれ」
中村さんは目を閉じ、耳を塞いだ。しかし、声は頭の中に直接響くように聞こえた。
夜明けまで
声は途切れることなく続いた。
木下さんの声は次第に懇願から怒りに変わった。
「なぜ開けない。俺を見殺しにするのか。あのときと同じだ」
あのとき。木下さんが遭難したとき、中村さんは同じパーティーにいた。悪天候の中で木下さんとはぐれ、捜索したが見つけられなかった。木下さんの遺体が発見されたのは、春の雪解け後だった。
中村さんはずっとそのことを悔やんでいた。もっと探すべきだったのではないか。もっと早く救助を呼ぶべきだったのではないか。
声はその傷をえぐるように続いた。
「お前が見捨てたんだ。お前のせいで俺は死んだんだ。せめて今、ドアを開けてくれ」
中村さんは耳を塞いだまま、朝を待った。何時間が経ったかわからない。永遠にも思える時間の後、窓の外がうっすらと明るくなり始めた。
声が止んだ。
風の音が戻ってきた。木々のざわめき。鳥の声。普通の山の朝の音だ。
中村さんはロープをほどき、ゆっくりとドアを開けた。
外はガスが晴れて、朝日が尾根を照らしていた。小屋の前には誰もいない。足跡もない。
ただし、ドアの外側に、おかしなものがあった。
ドアの板に、爪で引っ掻いたような痕がついていた。5本の線が、上から下に向かって何本も。まるで、ドアにしがみつきながらずり落ちたかのような痕だった。
その痕は、以前からあったものかもしれない。風雨にさらされた木造のドアなら、どんな傷がついていてもおかしくない。しかし、中村さんには昨日到着したときにその痕がなかったという確信があった。
下山後
中村さんは急いで下山した。下山口の駐車場に着いたとき、管理人の老人と話す機会があった。
「昨夜、避難小屋に泊まったんですが」
「ああ、あそこね。一人で泊まったの?」
「はい」
老人は眉をひそめた。
「あそこは、一人で泊まるもんじゃないよ。昔からそう言われている」
「何かあるんですか」
「山で亡くなった人がな、寂しくて小屋に来るんだと。生きている人の温もりが恋しくてな。でも、入れてやっちゃいけない。入れたら、代わりに連れていかれる」
中村さんは老人の言葉に背筋が震えた。
「もし開けていたら、どうなっていましたか」
老人は答えなかった。ただ、遠くの山を見つめて、こう言った。
「あの小屋に泊まって、朝を迎えられなかった人がいるという話は聞いたことがある。もう何十年も前の話だがね。朝になって小屋を見に行ったら、ドアが開いていて、中に誰もいなかった。荷物だけが残されていて、持ち主は山のどこにも見つからなかったそうだ」
中村さんはそれ以来、山小屋に一人で泊まることはなくなった。
この話を聞いたのは、中村さんが引退登山をした翌年のことだった。引退の理由を聞くと、中村さんはこう言った。
「山は好きだ。今でも好きだよ。でも、最近夢を見るんだ。あの小屋の夢を。夢の中では、俺がドアの外側にいて、中にいる誰かに開けてくれと頼んでいるんだ」
中村さんはグラスの氷を揺らしながら、静かに続けた。
「夢の中の俺は、ひどく寒いんだ。そして、中にいる人間の温もりがたまらなく恋しい。目が覚めると体が冷え切っていて、何枚毛布をかけても温まらない」
「それは…」
「ああ。あの夜、ドアの外にいたものと同じだ。俺は少しずつ、あっち側に近づいているのかもしれない」
中村さんはそう言って、苦笑いした。
私はその笑顔を見て、何も言えなかった。中村さんの手が、微かに震えていたからだ。