隣の住人|引っ越してきた隣人が見せた笑顔の裏側
マンションの隣に誰が住んでいるか、どれくらいの人が把握しているだろう。都会の集合住宅では、隣人の顔も名前も知らないまま何年も過ごすことが珍しくない。壁一枚を隔てたすぐ向こうに、どんな人間がいるのかわからない。
しかし、知らないことの不安より、知ってしまった後の恐怖のほうが大きいこともある。
これは、私自身の体験だ。
新しい隣人
私が住んでいるのは、築15年の分譲マンションの7階だ。角部屋で、隣接する部屋は一つだけ。その隣室が半年ほど空室になっていたが、ある日引っ越し業者のトラックが来て、新しい住人が入った。
翌朝、出勤のためにドアを開けたところ、隣室のドアも同時に開いた。
「おはようございます。隣に越してきた藤井です。よろしくお願いします」
30代後半くらいの男性だった。清潔感のある短髪に、きちんとしたシャツ。穏やかな笑顔。声も落ち着いている。第一印象は非常に好感の持てる人物だった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
それから毎朝、廊下で顔を合わせて挨拶を交わすようになった。出勤の時間帯が同じらしく、ほぼ毎日会う。
「おはようございます」「おはようございます」
それだけの関係だった。名前と顔は知っているが、それ以上のことは何も知らない。普通の隣人関係だ。
小さな違和感
藤井さんが引っ越してきて一か月ほど経った頃、些細な違和感を覚え始めた。
まず、生活音がまったく聞こえない。壁が厚いのかもしれないが、以前の住人のときは微かにテレビの音や水回りの音が聞こえていた。藤井さんの部屋からは何の音も漏れてこない。
次に、ゴミ出しを見たことがない。マンションのゴミ置き場は1階にあり、住人は各自で持っていく。しかし、藤井さんがゴミ袋を持っている姿を一度も見ていない。
そして、訪問者がいない。宅配便も来ない。インターホンが鳴る音を聞いたことがない。
いずれも、注意していなければ気づかない程度のことだ。一人暮らしの男性なら生活音が少なくてもおかしくない。ゴミは夜中に出しているのかもしれない。宅配便は職場受け取りかもしれない。
しかし、一つだけ明確に不自然なことがあった。
毎朝会う藤井さんの服装が、毎日まったく同じなのだ。
白いシャツに紺のスラックス。ベルトも靴も同じ。最初の一週間は気にならなかった。しかし、一か月経っても変わらない。季節が変わっても変わらない。夏になっても長袖の白いシャツ。同じ靴。同じベルト。
同じ服を何枚も持っているのだろうか。あるいは、毎日洗濯しているのだろうか。どちらにしても、コーディネートが一切変わらないのは奇妙だった。
不在の日
ある土曜日、マンションの管理組合の総会があった。全戸の出席が求められていたが、藤井さんは欠席だった。
総会の後、管理人の田辺さんと立ち話をした。
「藤井さん、来ませんでしたね」
「ああ、あの方はね。入居のときの書類も最低限しか出していなかくてね。緊急連絡先も勤務先も未記入。保証会社は通っているから問題はないんだが」
「寡黙な方ですよね」
「挨拶はちゃんとするんだがね。それ以上のことは一切話さない。まあ、迷惑をかけるわけでもないから」
その日の午後、私はベランダに出て洗濯物を干していた。ふと隣のベランダに目をやった。
藤井さんのベランダには何もなかった。洗濯物も、植木も、エアコンの室外機以外には何一つ置かれていない。
カーテンが少し開いていた。そこから室内がちらりと見えた。
何もなかった。
テーブルも椅子もない。テレビもない。本棚もない。フローリングの床が見えるだけで、生活用品が一切見当たらなかった。まるで空室のようだった。
人は住んでいるはずだ。毎朝会っている。しかし、部屋の中にはものがない。
観察
それからの数週間、私は藤井さんを注意深く観察するようになった。
朝の挨拶の際、藤井さんの手荷物を確認した。鞄を持っていない。財布もスマートフォンも持っている様子がない。手ぶらで出かけていく。
帰宅時間を何度か確認した。毎日午後7時きっかりにエレベーターから降りてくる。一分の誤差もない。
ある夜、壁に耳を当ててみた。完全な無音。テレビの音も、水を使う音も、足音も聞こえない。生活している気配がゼロだ。
私はだんだん怖くなってきた。しかし同時に、もしかしたら自分が神経質になりすぎているだけかもしれないとも思った。
決定的だったのは、ある雨の朝のことだ。
マンションのエントランスを出たところで、激しい雨が降っていた。傘を持っていなかった私は、エントランスで立ち止まった。
藤井さんも同時に出てきた。同じく傘を持っていない。
「雨ですね」と私が言った。
「そうですね」と藤井さんが答えた。
そして藤井さんは、傘もささずに雨の中を歩き始めた。白いシャツがすぐにびしょ濡れになった。しかし藤井さんは気にする様子もなく、同じ歩調で、同じ方向に歩いていった。
私は後ろからその姿を見ていた。
藤井さんの白いシャツが雨に濡れて肌に張りついている。その背中に、何も透けていなかった。濡れた白いシャツの下に、肌の色が見えない。
シャツの下が、白かった。シャツと同じ色の白。肌ではなく、何か別のもの。
確認
その日の夜、私は意を決して藤井さんの部屋のインターホンを押した。
返事がない。
もう一度押した。返事がない。
ドアの前に立って耳を澄ませた。室内は完全に無音だ。
ドアノブに手をかけた。回った。鍵がかかっていない。
私はドアを開けた。
真っ暗な室内。玄関の照明スイッチを入れた。
靴がなかった。下駄箱は空。
廊下を進んだ。リビングに入った。照明をつけた。
何もなかった。ベランダから見た通り、家具が一つもない。キッチンに食器はない。冷蔵庫の中は空。浴室にシャンプーもタオルもない。
この部屋には、誰も住んでいない。
しかし私は毎朝、この部屋から出てくる藤井さんと挨拶を交わしている。
部屋の一番奥の部屋、寝室にあたる部屋のドアだけが閉まっていた。
開けた。
部屋の中央に、一つだけものがあった。
全身鏡だった。
大きな姿見が、部屋の真ん中に立てられていた。それ以外には何もない。
鏡に近づいた。自分の姿が映る。暗い部屋で懐中電灯を持った自分。
しかし、鏡の端に、もう一人映っていた。
白いシャツに紺のスラックスの男が、私の後ろに立っていた。
振り返った。誰もいない。
鏡に目を戻した。鏡の中には、まだそこにいた。穏やかな笑顔で。
「おはようございます」
鏡の中の藤井さんが言った。
私は部屋を飛び出した。
その後
翌日、管理会社に連絡した。隣室の住人について確認してほしいと。
管理会社の回答はこうだった。
「隣室は半年前から空室です。入居者はいません」
「藤井という方が引っ越してきたはずですが」
「そのような記録はありません。賃貸契約も、売買記録もありません。あの部屋は空室のままです」
私は受話器を握りしめたまま動けなかった。
では、この半年間、私が毎朝挨拶を交わしていたのは誰だったのか。
鍵のかかっていない空室。何もない部屋。中央に置かれた全身鏡。鏡の中にだけ存在する人物。
藤井さんは実在しない。最初から、存在していなかった。
しかし、一つ解せないことがある。
毎朝、エレベーターホールで他の住人とすれ違うとき、藤井さんにも挨拶していた人がいた。管理人の田辺さんも、藤井さんの話をしていた。私だけの幻覚ではない。
だとしたら、あの鏡は何なのか。
私は隣室の鏡を確認しに行こうとした。しかし、部屋のドアは今度は施錠されていた。
管理会社に鍵を借りて部屋を開けてもらった。管理会社の担当者が同行した。
部屋は空だった。何もない。寝室も空。
鏡はなかった。
担当者は首をかしげながら言った。
「確かに空室ですね。前の入居者の残置物もなし。鏡? そんなものはありませんよ」
私はそれ以上何も言えなかった。
あれから三か月が経つ。藤井さんには会わなくなった。隣室は相変わらず空室のままだ。
しかし最近、向かいの棟の知人が言ったことが気になっている。
「最近、お隣に新しい人が越してきたのよ。感じのいい方。毎朝挨拶してくれるの」
「どんな人?」
「白いシャツの男の人。名前は…なんだったかしら。藤井さん、だったかな」
私は何も言えなかった。
藤井さんは、移動したのだ。あの鏡とともに。次の空室へ。