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古いアパートの謎|前の住人が残した異常な痕跡

長編ホラー アパート 引っ越し 怖い話
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引っ越しは人生の転機だ。新しい部屋で新しい生活を始める期待感がある。しかし同時に、その部屋にはかつて別の誰かが暮らしていたという事実がある。前の住人の痕跡は、通常はクリーニングで消される。しかし、消しきれないものが残っていることがある。

これは、大学の後輩である小林が体験した話だ。

格安物件

小林が社会人になって最初に借りた部屋は、都内にある築50年の木造アパートの2階だった。駅から徒歩15分、6畳一間にキッチンとユニットバス。家賃は相場の半額以下だった。

不動産会社の担当者は、特に問題のある物件だとは説明しなかった。告知義務のある事案もないという。ただ築年数が古いことと、大家が高齢で管理が行き届いていないことが安さの理由だと言われた。

内見のとき、部屋は薄暗かったが、清掃は一応されていた。壁紙は黄ばんでいるが、大きな汚れはない。天井には古い染みがあるが、雨漏りの跡だろう。

小林は即決した。給料の安い新入社員にとって、この家賃は魅力的だった。

引っ越したのは4月の初め。荷物は少なく、半日で片付いた。

最初の夜、小林は布団の中でこの部屋の前の住人について考えた。どんな人だったのだろう。何年住んでいたのだろう。なぜ出ていったのだろう。

壁紙の下

入居して一週間後、小林は部屋の掃除をしていた。壁際の埃を拭いているとき、壁紙の端がめくれていることに気づいた。糊が劣化して浮いているのだ。

気になって少し引っ張ると、壁紙が簡単に剥がれた。その下にもう一枚、古い壁紙があった。このアパートは壁紙を重ね貼りしているらしい。

古い壁紙は花柄だった。かなり年季が入っている。そしてその上に、何か書かれていた。

文字だ。ボールペンで書かれた文字が、壁紙の上を埋め尽くしていた。

小林は壁紙をさらに剥がした。文字は壁一面に書かれていた。同じ文章の繰り返しだった。

「でていけ でていけ でていけ でていけ」

何百回、何千回と繰り返されている。文字の大きさはまちまちで、最初は丁寧に書かれているが、途中から乱れ、最後はほとんど判読できないほど崩れている。

小林は反対側の壁も確認した。壁紙を少し剥がすと、やはり同じ文字が書かれていた。

四方の壁すべてを確認した。すべて同じだった。「でていけ」の文字が、部屋のすべての壁を覆っていた。

小林は壁紙を元に戻した。前の住人の精神状態がおかしかったのだろう。それは前の住人の問題であって、自分には関係ない。そう考えることにした。

天井裏の音

入居から3週間後、小林は夜中に奇妙な音で目を覚ますようになった。

天井裏から聞こえる音だった。カリカリ、コリコリという、何かを引っ掻くような音。ネズミだろうか。古いアパートならネズミが出ても不思議ではない。

しかし、音のパターンがネズミらしくなかった。一定のリズムがある。カリカリカリ、間を置いて、カリカリカリ。まるで、何かを削るように、規則正しく繰り返されている。

音は毎晩、午前2時頃に始まり、4時頃に止む。決まった時間に。

小林は大家に相談した。大家は高齢の女性で、アパートの1階に住んでいた。

「天井裏にネズミがいるようなんですが」

大家はしばらく黙ってから言った。

「ネズミはいないよ。駆除は定期的にやっている」

「でも、夜中に音がするんです」

「前の人も同じことを言っていたね」

「前の住人もですか。それで引っ越したんですか」

大家は答えなかった。話題を変えるように、「今度業者を呼んで見てもらうよ」と言った。

業者は来なかった。何度頼んでも、大家は「そのうち」と言うだけだった。

調査

小林は自分で天井裏を確認することにした。押し入れの天袋を開けると、天井板が外れるようになっていた。

懐中電灯を手に、天井裏に頭を出した。埃っぽい空間が広がっている。断熱材が敷かれ、古い配線が這っている。

懐中電灯で照らしながら、音が聞こえる方向に目をやった。

天井裏の奥に、何かがあった。

板が一枚、立てかけてあった。天井板と同じ素材の板だが、明らかに後から置かれたものだ。何かを隠すように壁際に立てかけられている。

小林は天井裏に這い上がり、板に近づいた。板をどかすと、その後ろの壁にも文字が書かれていた。

今度は「でていけ」ではなかった。

「たすけて」だった。

壁に「たすけて」と何度も書かれていた。そして、文字の周りに爪で引っ掻いたような痕が無数についていた。

小林は天井裏から降りた。手が震えていた。

大家の告白

翌日、小林は大家のもとを訪ねた。

「前の住人について教えてください」

大家は長い間黙っていた。そして、重い口を開いた。

「あの部屋には、10年前まで若い男が住んでいた。おとなしい人でね、問題を起こすようなタイプじゃなかった」

「その人はなぜ出ていったんですか」

「出ていったんじゃない。いなくなったんだ」

「いなくなった?」

「ある日突然、姿を見なくなった。仕事にも来なくなった。家族が心配して見に来て、部屋を開けたら誰もいなかった。荷物はそのまま。財布も携帯もそのまま。ただ、本人だけがいなかった」

大家は目を伏せた。

「警察にも届けたが、見つからなかった。今も行方不明のままだ」

「壁に文字が書いてありました。『でていけ』と」

大家の顔がこわばった。

「…あの壁紙は、その人が住んでいた頃からのものだ。文字のことは知っていた。だから上から新しい壁紙を貼った」

「誰に向かって『でていけ』と書いていたんでしょうか」

大家は答えなかった。

小林はもう一つ聞いた。

「天井裏にも文字がありました。『たすけて』と」

大家の顔から血の気が引いた。

「…天井裏は確認していなかった」

大家はそれきり口を閉ざした。

最後の夜

その夜、小林は引っ越しの準備を始めた。もうこの部屋にはいられない。

荷物をまとめている最中、午前2時になった。天井裏から例の音が聞こえ始めた。カリカリカリ。

しかし今夜は、音が違った。引っ掻き音に混じって、別の音が聞こえた。

声だった。

くぐもった、押し殺したような声。何を言っているのか聞き取れない。しかし、必死に何かを訴えているような切迫感があった。

小林は天袋を見上げた。

天袋の戸が、内側から押されていた。何かが天井裏から出ようとしている。戸板がガタガタと揺れている。

小林は部屋を飛び出した。アパートの階段を駆け下り、大家の部屋のドアを叩いた。

大家が出てきた。小林は事情を説明した。大家は黙って小林の顔を見つめ、そして言った。

「あの音はね、私にも聞こえていたんだよ。ずっと前から。あの人がいなくなる前から」

「え?」

「あの人は、天井裏の音から逃げようとしていたんだ。壁に『でていけ』と書いていたのは、天井裏にいるものに向かってだった。でも出ていかなかった。そしてある夜、あの人は天井裏を確認しに上がった。私は下の階でその物音を聞いていた。上がった音は聞こえたが、降りてくる音は聞こえなかった」

大家は声を震わせた。

「翌朝、部屋を見に行った。天袋は閉まっていた。部屋には誰もいなかった。天井裏も確認したが…何もなかった。あの人も、何も」

小林はその夜のうちにアパートを出た。荷物は後日、引っ越し業者に取りに行ってもらった。業者には「天袋は絶対に開けないでください」と念を押した。

それから

小林が引っ越してから数か月後、あのアパートは取り壊された。大家が施設に入ることになり、土地ごと売却されたのだという。

解体工事の際、天井裏からは特に何も出てこなかったという。行方不明の住人の手がかりも見つからなかった。

しかし、解体業者の一人が奇妙な証言を残している。天井板を剥がしたとき、板の裏側一面に爪痕がついていたという。表側ではなく裏側に。つまり、天井裏の側から板を引っ掻いた痕ではなく、部屋の側から天井板を引っ掻いた痕だった。

その爪痕は、まるで天井裏から手を伸ばして部屋に戻ろうとしたかのように見えたと、業者は語ったという。

小林はこの話を聞いて、ある推測を立てた。

あの行方不明の住人は、天井裏に上がった。そして、何かに遭遇した。天井裏にいた何かは、住人を取り込んだ。壁に書かれた「たすけて」は、取り込まれた後に書かれたものだ。そして毎夜聞こえる引っ掻き音は、天井裏に閉じ込められた住人が、部屋に戻ろうとして天井板を引っ掻いている音だった。

もし小林があの夜、天袋を開けていたら。あるいは、天井裏に上がっていたら。

小林も同じように、天井裏の住人になっていたのかもしれない。

小林は今も元気に暮らしている。ただし、新しい部屋を借りるとき、必ず天井裏の点検口を確認するようになった。そして、絶対に開けない。

「天井裏には何があるかわからない」と小林は言う。「わからないままでいい。知らないほうがいいことは、この世にいくらでもある」

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