間違い電話|非通知の着信に出てしまった夜の恐怖
私がこの電話を受けるようになったのは、引っ越してきた翌週のことだった。
新しいマンションでの一人暮らし。仕事にも慣れ始め、生活のリズムが整い始めた頃。毎晩10時になると、固定電話が鳴るようになった。
番号表示は非通知。最初は無視していたが、毎晩同じ時間に鳴り続けるので、三日目に出てみた。
「もしもし」
「…お母さん?」
少女の声だった。10歳くらいだろうか。泣いているような、震えているような声。
「違いますよ。間違い電話です」
「お母さん、迎えに来て。怖いの」
「あの、ここはお母さんの家じゃありません。番号を間違えていますよ」
「お母さん…」
電話は切れた。
翌日も同じ時間に電話が来た。同じ声。同じ言葉。
「お母さん、迎えに来て」
「お嬢ちゃん、ここはお母さんの家じゃないのよ。お母さんの番号をもう一度確認してね」
「暗いの。一人なの。迎えに来て」
胸が締めつけられた。この子はどこかで一人きりで怯えているのだ。間違い電話だとわかっていても、放っておけなかった。
「お名前は? どこにいるの?」
「…ミキ。暗くて、わからない。お母さんの声が聞こえたから、電話したの」
「ミキちゃん、周りに何が見える?」
「何も見えない。暗い。冷たい。でも、お母さんの声が聞こえるから大丈夫」
電話が切れた。
調査
気になって調べてみた。この電話番号の以前の契約者が誰だったのか。電話会社に問い合わせても個人情報は教えてもらえなかったが、マンションの管理会社に聞いたところ、この部屋には以前、母子家庭の親子が住んでいたことがわかった。母親と小学生の娘。三年ほど前に引っ越したという。
引っ越し先は不明。電話番号は解約された後、私に再割り当てされたのだろう。つまりミキちゃんは、以前の番号にかけ続けているのだ。お母さんの番号だと思って。
しかし、おかしなことがある。この番号は三年前に解約されている。ミキちゃんは三年間、繋がらない番号にかけ続けていたのだろうか。そして私がこの番号を引き継いだ途端、繋がるようになった?
翌夜も電話が来た。今度は少し長く話した。
「ミキちゃん、お母さんの名前は?」
「…カオリ」
「カオリお母さんは、今どこにいるの?」
「わからない。ミキを置いていった。ミキが悪い子だったから」
「そんなことないよ。お母さんは忙しかっただけだよ」
「ほんとう? お母さん、迎えに来てくれる?」
私は言葉に詰まった。私はミキちゃんのお母さんではない。嘘をつくわけにはいかない。
「ミキちゃん、私はお母さんじゃないの。でも、お母さんを探すのを手伝えるかもしれない」
沈黙。そして、ミキちゃんの声のトーンが変わった。
「…知ってる。お母さんじゃないことは、知ってる」
「え?」
「でも、声が似ているから。お母さんの声に。だから、電話するの」
「ミキちゃん…」
「お母さんの声が聞きたいの。それだけ」
電話が切れた。
エスカレーション
それから毎晩、ミキちゃんと話すようになった。最初は怖かったが、次第に情が移った。この子は本当に怯えているのだ。暗い場所に一人でいて、母親を求めている。
しかし、会話を重ねるうちに不自然な点が出てきた。
ミキちゃんに学校のことを聞いても答えない。食事のことを聞いても答えない。「今どこにいるの」と聞くと、いつも同じ答え。「暗い。冷たい」。
ある夜、私は核心に迫る質問をした。
「ミキちゃん、最後にお母さんに会ったのはいつ?」
長い沈黙。
「…わからない。ずっと前。ずっとずっと前」
「それからずっと、一人でいるの?」
「うん。暗い場所で。でも、電話があるから。お母さんの番号を押せば、声が聞こえるから」
「電話はどこにあるの?」
「ミキの隣に。ずっと隣にある」
違和感が頂点に達した。暗い場所に一人でいて、電話だけが隣にある。食事もない。学校にも行かない。それが何年も続いている。
そんなことは、生きている人間にはあり得ない。
真実
翌日、私は管理会社にもう一度連絡を取った。前の住人の母子について、もう少し詳しく教えてほしいと頼んだ。
管理会社の担当者は渋ったが、最終的にこう教えてくれた。
「前の住人の方は、引っ越したのではなく…その、退去されたんです」
「退去? どういう意味ですか」
「母親が失踪したんです。ある日突然いなくなった。娘さんが部屋に一人で残されているのを近隣の方が発見して、児童相談所に保護されました」
「ミキちゃんは今、どこに?」
担当者は答えにくそうにしていたが、言った。
「保護されたとき、お嬢さんはかなり衰弱していたそうです。母親がいなくなってから相当な日数が経過していたようで。その後のことは、私どもも把握していません」
私は電話を切った。手が震えていた。
ミキちゃんは保護されたのだ。生きていたのだ。ならば、私に電話をかけてくるミキちゃんは誰なのか。
その夜、10時に電話が鳴った。出た。
「お母さん?」
「ミキちゃん。教えて。今、あなたはどこにいるの」
「暗いところ。冷たいところ。ずっとここにいる」
「一人で?」
「うん。電話と一緒に」
私は意を決して聞いた。
「ミキちゃん。あなたは…生きているの?」
沈黙が続いた。10秒。20秒。
「お母さんが来てくれたら、わかる」
「私はお母さんじゃない」
「知ってる。でも、来て」
「どこに」
「下」
「下?」
「お母さんの部屋の、下」
電話が切れた。
下。私の部屋の下。
私は1階の部屋に住んでいる。下には何がある。
地下だ。このマンションには地下駐車場がある。その奥に、使われていない地下倉庫があると聞いたことがある。
結末
翌日、管理会社に地下倉庫の調査を依頼した。何があるかわからないから一人では行きたくない。管理会社の担当者と管理人が同行してくれた。
地下駐車場の奥に、鉄の扉があった。倉庫として使われていたが、今は使用されていないという。鍵は管理人が持っていた。
扉を開けた。暗い空間。コンクリートの壁と床。湿っていて、冷たい。
部屋の奥に、段ボール箱がいくつか積まれていた。前の住人が残していったものだという。
その中の一つの箱を開けたとき、私は息を呑んだ。
箱の中に、古い子供用の携帯電話が入っていた。ピンク色のケースに、キャラクターのストラップ。電源は切れている。バッテリーはとっくに尽きているはずだ。
しかし、その携帯電話の発信履歴には、私の部屋の固定電話の番号が登録されていた。いや、正確には、前の契約者の番号だ。「おうち」という名前で。
この携帯電話から、毎晩私に電話がかかっていたのだ。電源が入っていない携帯電話から。
管理人が箱の中の他のものを確認した。子供の服。ぬいぐるみ。そしてノート。表紙に「ミキ」と書かれたノート。
ノートの最後のページに、クレヨンで書かれた文章があった。
「おかあさんへ。ミキはいいこにしています。でんわするからでてね。おかあさんがいないとくらいの。さむいの。でもまってる。ずっとまってる」
管理会社が調査した結果、ミキちゃんは児童養護施設で元気に暮らしていることが確認された。現在は中学生になっているという。生きている。
では、毎晩私に電話をかけてきていたミキちゃんの声は、何だったのか。
あの携帯電話は、電源が入っていないにもかかわらず、発信し続けていた。母親の電話番号に向かって。助けを求め続けていた。
ミキちゃん本人は施設で暮らしている。しかし、あの暗い部屋に置き去りにされた日々の恐怖と孤独は、携帯電話の中に残り続けていた。ミキちゃんの思いが、電波になって飛び続けていたのかもしれない。
あるいは。
私はふと、別の可能性に思い当たった。
ミキちゃんは児童養護施設で元気に暮らしている。それは確認された事実だ。しかし、管理会社の担当者が最初に言った言葉を思い出してほしい。
「保護されたとき、お嬢さんはかなり衰弱していたそうです」
保護されたミキちゃんは助かった。しかし、もし別の可能性があったなら。もし発見が一日遅れていたら。もし近隣の住人が気づかなかったら。
暗い部屋で、冷たい床の上で、母親の電話番号を押し続ける少女。繋がらない電話。応答のない呼び出し音。そして、力尽きる。
起こらなかった未来。しかし起こりえた未来。
あの電話は、起こらなかった悲劇の残響だったのかもしれない。もう一つの結末を生きたミキちゃんが、今もあの暗い部屋から電話をかけ続けているのだ。
私は固定電話を解約した。
しかし時々、夜10時になると、解約したはずの電話の幻聴が聞こえる。受話器を上げたい衝動に駆られる。あの声を、もう一度聞きたいと。
「お母さん、迎えに来て」
その言葉に、「今行くよ」と答えたい自分がいる。