峠道の怪|車のバックミラーに映ったもの
社会人三年目の秋、仕事で地方に出張した帰りの話だ。あの夜のことを思い出すと、今でもバックミラーを見るのが怖くなる。
深夜の峠
出張先での打ち合わせが長引き、帰路についたのは午後十一時を過ぎていた。高速道路を使えば三時間で帰れるが、疲れていたので途中のサービスエリアで仮眠をとるつもりだった。
ところがナビが示したのは、山越えの峠道を通る国道のルートだった。高速の入り口を通り過ぎてしまったのだ。引き返すのも面倒で、そのまま国道を進むことにした。
峠に差しかかると、対向車がほとんどなくなった。街灯もない。ヘッドライトだけが頼りの暗い山道だった。カーブが連続し、ガードレールの向こうは深い谷だ。
最初の異変
峠の頂上を越えて下り坂に入ったとき、違和感を覚えた。
バックミラーに映る後部座席が、妙に暗い。室内灯はつけていないから暗いのは当然だが、いつもよりも濃い影が後部座席にかかっているように見えた。
気のせいだろう。疲れている。早く帰ろう。
五分ほど走ったとき、もう一度バックミラーを見た。
影が動いた。
後部座席の影が、人の形をしていた。座席の中央に座っているように見える。頭らしきものがあり、肩の線がある。
心臓が跳ねた。しかし冷静に考えた。対向車のヘッドライトが車内に差し込んで、影が人の形に見えているだけだ。
だが、対向車は一台も来ていなかった。
確認
私は車を路肩に止めた。ルームライトをつけた。
後部座席には何もなかった。出張用の鞄が一つ置いてあるだけだ。
やはり気のせいだった。私はルームライトを消して、車を発進させた。
走り出して三分後、またバックミラーを見た。
人がいた。
今度ははっきりと見えた。後部座席の中央に、人が座っている。暗くて顔は見えないが、体のシルエットは明確だ。男か女かもわからない。ただ、じっと動かずに座っている。
私はルームライトのスイッチに手を伸ばした。ライトをつけた。
後部座席は空だった。鞄だけ。
ライトを消した。バックミラーを見た。
やはり人がいる。
ライトをつけると消え、消すと現れる。暗闇の中にだけ存在する何か。
私は震える手でハンドルを握りしめ、ルームライトをつけたまま走ることにした。
声
峠を下りきり、平野部に出た。街灯が見え始めた。少し気が楽になった。
ルームライトを消してみた。バックミラーを確認する。
後部座席には何もいなかった。
安堵した。あの峠道だけの現象だったのだ。気のせい、あるいは疲労による錯覚。そう結論づけた。
しかし、その瞬間、後部座席の方向から声が聞こえた。
「つぎは まえ」
低い、掠れた声だった。性別も年齢もわからない声。はっきりと聞こえた。空耳ではありえない。
「つぎは まえを みるな」
私はアクセルを踏み込んだ。制限速度を大幅に超えていたと思う。最寄りのコンビニの駐車場に飛び込み、車を止めた。明るい照明の下で、車の中を隅々まで確認した。何もいなかった。
コンビニの店内で三十分ほど時間をつぶし、気持ちを落ち着かせてから帰宅した。帰りの道中では何も起こらなかった。
後日
翌日、会社の同僚にこの話をすると、一人が顔色を変えた。
「その峠、もしかして某峠か」
「ああ、そうだが」
「あの峠は有名だよ。深夜に一人で通ると、後部座席に誰かが乗るって。バックミラーで見えるらしい」
「知らなかった」
「でも、お前が聞いた言葉は初めてだな。『まえを見るな』って」
同僚は少し考えて言った。
「もしかしたら、フロントガラスの向こうに何かいたのかもな。お前がバックミラーばかり見ていたから、前を見なかっただけで」
その言葉を聞いて以来、あの夜の峠道を思い返すたびに考えてしまう。
あの暗い峠の下り坂で、ヘッドライトの先の闇の中に、何がいたのだろう。
私が前を見なかったから見えなかっただけで、ずっとそこに立っていたのだとしたら。