公園のベンチ|隣に座った人の怖い話
これは母が体験した話だ。母はあの日のことを今でもはっきり覚えているという。
昼下がり
日曜日の午後二時頃。母は近所の公園のベンチに座って本を読んでいた。天気のよい穏やかな日で、木漏れ日が気持ちよかった。
ベンチの端に座っていた母の隣に、男性が腰を下ろした。六十代くらいに見えた。グレーのジャケットにスラックス。きちんとした身なりだが、表情がどこか虚ろだった。
母は軽く会釈して、本に目を戻した。
しばらくすると、男性が話しかけてきた。
「今日は天気がいいですね」
穏やかな声だった。母は本から顔を上げて答えた。
「そうですね。こんな日は外にいるのが気持ちいいです」
「ええ。こんな日にここにいられるのは、幸せなことです」
男性は公園の木々を見上げながらそう言った。その言い方が少し不思議だったが、母はそれほど気に留めなかった。
会話
男性はぽつぽつと話を続けた。
「この公園は昔からあるんですよ。私が子どもの頃から。あの桜の木は、私が小学生のときに植えたんです」
母は大きな桜の木を見た。かなりの老木で、幹は太い。
「もう五十年以上前ですか。あっという間ですね」
男性は穏やかに微笑んだ。しかし、その微笑みはどこか悲しげだった。
「家族に、ありがとうと伝えてください。もし、機会があれば」
唐突な言葉に、母は戸惑った。
「え。どなたに」
「すみません。独り言です。忘れてください」
男性は立ち上がった。「お邪魔しました。よい午後を」
そう言って、公園の出口に向かって歩いていった。歩き方が少しぎこちなかった。足を引きずるような、しかし地面に足がついていないような。
母はなんとなくその後ろ姿を見送った。男性は公園の出口の角を曲がり、見えなくなった。
救急車
本に目を戻して十分ほど経ったとき、公園の外の通りからサイレンの音が聞こえた。救急車だった。公園のすぐ近くで停まったようだ。
母は気になって公園の出口まで行ってみた。通りの向かい側のマンションの前に救急車が停まっている。数人の人だかりができていた。
近所に住む顔見知りの女性がいたので、声をかけた。
「何があったんですか」
「あのマンションの一階に住んでるおじいさんが。お昼過ぎに倒れたらしくて。心筋梗塞だって」
「大丈夫なんですか」
女性は首を横に振った。
「ご家族が帰ってきたときには、もう。救急隊の方が、午後一時頃には亡くなっていただろうって」
午後一時。母がベンチに座ったのは午後二時。男性が隣に座ったのはその少し後。つまり、すでに亡くなった後だった。
母は通りの向こうを見た。マンションの入り口からストレッチャーが出てくるところだった。白い布がかけられている。その横で泣いている中年の女性。おそらくご家族だろう。
ストレッチャーの脇に、警察官が立っていた。手にビニール袋を持っている。中に入っていたのは、グレーのジャケットだった。
あのベンチで隣に座っていた男性と同じ色の。
母は何も言えず、公園に戻った。ベンチに座り直した。男性が座っていた場所を見た。
ベンチの木の面には、水滴がいくつか残されていた。晴れた日だった。雨は降っていなかった。
母は今でもその公園のベンチに座る。桜の木を見上げて、あの男性のことを思い出すという。